相続手続支援センターをはじめたきっかけ
相続の仕事をはじめたきっかけ
「ほんまにありがとう!」と言って、涙ながらに言ってもらった言葉は、今でも忘れることが出来ません。
時は、平成7年1月。
阪神淡路大震災の数日後、ボランティアで水が入ったポリタンク2つを両手に持ってアパートの4階まで上がり、おばあちゃんに渡してあげた時に、言ってもらった一言です。
震災の時は、大自然の前での人間の無力さと、人間の運命のはかなさを目の当たりにして、体の震えが止まりませんでしたが、数日後には、余震にも体が慣れていきました。
当時、私の住んでいた下宿は全壊したものの、体は無傷で、時間と体力を持て余していました。そんな時、何気ない気持ちで友人と行った、ボランティアでの体験でした。
その経験があったからか、私の中で、将来就職するなら「何か人のためになる仕事がしたい。」「一生懸命に仕事をするなら、人と直接に触れ合い、困っている方の助けになる仕事がしたい。」「“ありがとう”って言ってもらえる仕事をしよう!」と強く心に決めた、大学3回生の冬でした。
現在行っている、相続手続支援センターの仕事というのは、文字通り、相続の手続きを支援するというものですが、実は相続の手続きは、相続登記、相続税申告を代表とする手続きの他に、預金、株、投資信託、保険、携帯電話、クレジットカード、健康保険、電話、車、など全部で108種類以上もあります。
その全ての手続きを、専門家と連携しながらサポートしていますが、90種類もの相続に関わる手続の相談に乗るためには、様々な知識が必要となります。
私は、そうした基本の知識の一部を、大学の法学部で学びました。
大学を卒業してからは、何か法律に関わる仕事がしたいと思い、大阪の何代も続く司法書士事務所に就職しました。
その後、兵庫県の土地家屋調査士事務所で、事務所の代表補佐として責任ある仕事を行い、依頼者からの信頼を得られるよう努力いたしました。
こうした仕事を通じて、法律の大切さと素晴らしさを学びました。
就職してから何年か経ったある日、震災何周年かの報道番組を、何気なく見ていたとき、あのときのおばあちゃんからかけられた一言の記憶が、鮮明に蘇ってきました。
直接喜んでもらえ、生の声を聞く事が出来て、それが仕事になる。そんな仕事がやりたくなったのです。
しかし、当時の私に何が出来るでしょうか?
確かに、法律に関する手続など総合的にやってきましたから、知識はありました。
でも、そんな知識だけでは、食べていけません。何ヶ月も考えていた時のことです。
「親父が亡くなったので相続の相談にのってくれないだろうか」
台風がいよいよ本土に上陸しようというある雨風の強い日、友人からの一本の電話がはいりました。
話を聞くと、会社でお父様が小渕元首相と同じ脳こうそくで突然倒れ、お亡くなりになられたとのことでした。
お通夜と葬儀がやっと終わり、ご仏壇の前にお酒を供えて座っていると、親戚の方から、「葬儀後も、いろいろな相続の手続があるので、ゆっくりしている時間など無い」ということを聞かれたようでした。
冷静に考えてみると、葬儀が終わった後の手続についてなど考えたことが無く、何から手をつけていいかも分からず、頭の中がぐるぐると回りすごく不安になって電話してきたとの事でした。
次の日、友人の自宅に伺うと、テレビの横にはたくさんの書類が、今にも崩れ落ちそうなくらい山積みにされていました。
その書類を一つ一つ確認していくと、大変な間違いをしようとされていることが分かりました。払わなくてもいいお金を払おうとしたり、もらえるべきお金を請求せずにいようとしたりしていたのです。
そこで、約1年半かけて、相続に関する全ての手続きお手伝いさせていただきました。
最終日、出来上がった書類などをお渡しした後、仏壇にご焼香させていただいたとき、私の後ろに座っておられたお母様が、涙を流しながら一言おっしゃいました。
「お父さん良かったね。米田君が全部手続きをやってくれたから、無事終わったよ」
その一言を聞いたとき、私の背筋が、ぞくぞくっとしました。
あの、震災ボランティアをした時に、言ってもらった、おばあちゃんの「ほんまにありがとう!」という言葉が鮮明に蘇ってきたのです。
「自分がやりたかった仕事はこれだ!相続の手続ならやれる。相続の仕組みならある程度は知っている。複雑でたくさんある手続を一括して行うことが出来るサービスを作れば、喜んでくれる人は多いだろう。手続をスムーズに行って経済的な不利益や、心理的なストレス、そして争う相続を少しでも減らすことに役に立てばきっと大丈夫だろう。」
決めたら、もう止められません。翌日には、退職していました。
しかし、家族をはじめ、周りの人たちには、猛反対されました。
「せっかく大学を出て、いい事務所に入って、何を血迷ったのか?」
反対されると予想はしていましたが、その時の私は、夢と希望、使命感で一杯だったのです。
私は当時、既に結婚しており、生活を支えていかなければならない立場にありながら退職したわけですから、周りの人が反対するのも当たり前です。
案の定、周りの心配どおり、勢いだけ良くても、現実は厳しいものでした。
お金も満足に準備していませんでしたから、格好いい事務所もありません。前職の先生の計らいで、机と電話を置かせてもらいましたが、車が必要でも、買うお金がありません。広告だって出せません。毎日毎日、知らないご家庭を、『相続で何かお困りのことがあれば、相談に乗ります。忘れやすい手続はこの手続ですので、この一覧表でチェックしてみてください・・・』とまわっていました。
正直いいまして、辛かったし、悔しかったです。百件まわっても相談はゼロという日が続いたこともあります。
事務所を辞めたのが12月だったので、お正月が明けて1月7日から訪問を開始しました。雪が降って誰も歩いていない道を歩き、寒さと淋しさが余計に身にこたえました。夕暮れになって暗くなると、なぜだか眼から涙が出そうになって、唇を噛みしめました。
自宅の近所を訪問するのが恥ずかしくて、家から少し離れた場所を選んで訪問し、寒さで足の先の感覚が無くなっても、自分が決めた事だからと、歯を食いしばりました。
しかし、訪問販売の経験も無い私が、何百件まわっても仕事なんて取れるはずもありません。あまりにかわいそうに見えたのか、お茶を出してくれるおばあちゃんもいました。温かかったし、嬉しかったです。
でも、かわいそうに思われたのが、何よりも悔しくて、ショックでした。
創業した頃から様々な相談に乗ってもらっていた弁護士や税理士の先生に、「ダメかもしれません・・・」と話をしたこともありました。
よく考えてみれば当たり前です。実績も無く、どこの誰だか分からない相手に、大切な相続の相談なんて出来るはずはありません。
当時は、知識はあっても相談に来てくれる人がいないわけですから、少しも人の役に立つことなんて出来ませんでした。
創業する前は、甘く考えていました。「まあ、丁寧な仕事をして、信頼が得られれば、依頼者もわかってくれるはずだ。」しかし、現実は想像を絶するほど厳しかったのです。
そして、周りの人達に助けられて、なんとか少しだけ相続の手続の相談が来るようになった頃のことです。
少し調子に乗るとバチが当たるのか、相談に来られた方からの依頼をお断りしたのです。法律を無視した無理な要求をしてこられた方でしたので、丁寧にお断りしたつもりでしたが、そのことが原因で悪いうわさを立てられ、様々な所からいろいろなことを聞かれました。
全てに対して誠実にお答えし、誠意を持って対応いたしましたので納得していただけました。
けれどもその事で、自分自身が潰れそうになりました。それ以上に、噴き上がる怒りと、やるせないような悲しさで頭が混乱し、どうしていいのか分からなくなるほどでした。
それから数ヶ月、なんだかボーっとしたままの仕事が続いた後、私は、もう限界だと思ったのです。
そんな私を見て、いろんな人が助けてくれました。励ましてくれました。本当に、心の底から頭の下がる想いでした。
こうして、だんだんと、依頼者が友人をご紹介してくださったり、ご遺族の方が相談に来られるようになり、仕事も軌道に乗っていきました。
これまで、22年間、「相続手続支援センター」を、全国に広め、「出来るだけ可能な限り、はやく正確にそして円満に手続を終わらせたい」そして、「絶対に失敗したくない」そんな思いを抱きつつ相続で困られているご家庭を、ひとつでも減らし、一人でも多くのご遺族の支えになりたいと考え、今日までひたすらに走ってきました。
紆余曲折がありましたが、この思いに賛同していただける相続手続支援センターを運営する仲間が全国42カ所になり、累計での相談件数も8万12件を超えました。
そして、毎年130万件発生する相続で困る人を、世の中から一人でも無くすため、相続手続カウンセラーを1万人養成する目的で協会も設立しました。
これからも、4900通を超える『相談者からのお手紙』を財産に、この仕事に邁進していきたいと考えております。
(米田貴虎)